虎に翼モデル・三淵嘉子が何者か経歴・学歴まとめ!年収はどれくらいだったかも調査!

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2024年のNHK朝の連続テレビ小説「虎に翼」の主人公・猪爪寅子のモデルである三淵嘉子さん。

日本で初めて女性として判事となった彼女はどのような人物なのでしょうか?

今回は三淵嘉子さんの経歴や学歴から人物像を探るとともに当時の年収についても調べましたので、これから連ドラをご覧になる方は特に必見です。

目次

虎に翼モデル・三淵嘉子は何者か?

三淵嘉子さんのプロフィールを簡単にまとめたものがこちらです。

名前:三淵嘉子(みぶち・よしこ)
生年月日:1914年11月13日
出生地:シンガポール
経歴:女性初の弁護士、裁判官、家庭裁判所所長
没年月日:1984年5月28日(69歳)

当時としては珍しく、父からは女性でも男性と同じように手に職をつけることを勧められたことがきっかけで法律を学ぼうと志しました。

三淵嘉子さんは、明治大学に進学して弁護士を目指して学び、その後様々な立場を通して日本の社会問題に関わる女性裁判官になります。

その経歴について詳しく見ていきましょう。

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虎に翼モデル・三淵嘉子の経歴はかなりエリートだった

三淵嘉子さんの経歴を見ていくとかなりエリートだということが分かりました。

ざっくりとした経歴をまとめると以下のようになります。

  • 1914年11月13日(0歳):シンガポールに生まれる
  • 1932年3月(17歳):東京女子高等師範学校附属高等女学校を卒業
  • 1938年3月(23歳):明治大学法学部を卒業
  • 同年11月1日:高等文官試験司法科に合格
  • 1940年6月(25歳):弁護士登録(第二東京弁護士会所属)
  • 1947年3月(32歳):裁判官採用願を司法省に提出するも裁判官としての採用はなし
  • 1949年6月28日(34歳):東京地方裁判所で民事裁判を扱うように
  • 1952年12月(38歳):名古屋地方裁判所にて初の女性判事となる
  • 1965年4月~1972年(50~57歳):明治大学短期大学兼任講師を務める
  • 1972年6月(57歳):女性として初めて新潟家庭裁判所所長に就任
  • 1973年11月~1978年1月(58~63歳):浦和家庭裁判所所長に就任
  • 1978年1月~(63歳):横浜家庭裁判所所長に就任
  • 1979年11月13日(65歳):定年退官
  • 1984年5月28日(69歳):死去

このように、女性として初めての偉業を達成しながら法律の道を貫いた人生を送ったようです。

また、三淵嘉子さんのプライベート年表は以下のようになります。

  • 1941年11月5日(26歳):実家の書生だった和田芳夫と結婚
  • 1943年1月(28歳):第一子・芳武が誕生
  • 1946年(31歳):夫・芳夫を戦病死で亡くす
  • 1956年(41歳):最高裁調査官だった三淵乾太郎と再婚

子どもを育てながらキャリアを築くことは今以上に難しそうな時代にこれだけのキャリアを築いたことも偉業といえますね。

ここからは、三淵嘉子さんの経歴についてもう少し詳しく見ていきましょう。

裁判所の判事になるまで

三淵嘉子さんが裁判所の判事になるまでの経歴は以下の通りです。

  • 1938年11月1日(23歳):高等文官試験司法科に合格
  • 1940年6月(25歳):弁護士登録(第二東京弁護士会所属)
  • 1947年3月(32歳):裁判官採用願を司法省に提出するも裁判官としての採用はなし
  • 1949年6月28日(34歳):東京地裁民事部の判事補に任用
  • 1952年12月(38歳):名古屋地裁にて初の女性判事となる

明治大学を卒業したのち、高等文官試験司法科に合格したのは彼女を含めて女性では3人ということで当時のメディアで大きく取り上げられました。

新聞のインタビューでは以下のようなコメントを残しています。

三淵嘉子

私の望みは世のため、人のために最善を尽すことのみです。

このコメントからとても謙虚な心持ちが伝わります。

弁護士への道が開けたとはいえ男女差別の風潮も残っていますから、不安もたくさんあったでしょう。

1947年には、夫の死去をきっかけに裁判官採用願を司法省に提出しましたが、裁判官としての採用は見送られてしまいます。

その後も地道な勉強や実地経験などを経て、自分なりの考えを持ちながらも法の道を進む姿がかっこいいですね。

ようやく東京地裁民事部の判事補に任用された後、名古屋地裁にて初の女性判事となります。

初の女性判事になってから退官するまで

初の女性判事となってからの経歴は以下の通りです。

  • 1952年12月(38歳):名古屋地裁にて初の女性判事となる
  • 1965年4月~1972年(50~57歳):明治大学短期大学兼任講師を務める
  • 1972年6月(57歳):新潟家裁所長に就任し女性として初の裁判所所長となる
  • 1973年11月~1978年1月(58~63歳):浦和家裁所長に就任
  • 1978年1月~(63歳):横浜家裁所長に就任
  • 1979年11月13日(65歳):定年退官

名古屋地裁で初の女性判事となってから東京地裁や東京家裁の判事を経て、1972年に初の女性裁判所長となるのに約20年かかるのですね。

東京地裁判事としては、広島と長崎に投下された原爆の責任について争われた原爆裁判を担当しました。

判決では日本の裁判所ではじめて、

三淵嘉子

原爆投下は国際法違反。

と名言したのが三淵嘉子さんでした。

その後、新潟家裁や浦和家裁、横浜家裁の裁判所長を勤め上げた三淵嘉子さん。

横浜家裁では、裁判所の調停室の内装を明るくして音楽を流すなどして、裁判所を訪れる人への心遣いもあったそうです。

女性裁判官ならではの計らいですね。

定年退官した後の経歴

裁判官を定年退官した後も三淵嘉子さんの活躍は続きます。

定年退官した後の経歴をまとめました。

  • 弁護士として開業
  • 労働省男女平等問題専門家会議座長
  • 東京家裁調停委員兼参与員
  • 東京都人事委員会委員
  • 労働省婦人少年問題審議会委員

弁護士として開業する傍ら、男女平等や夫人、少年問題に関わる役職に就いて、社会問題に関わり続けていることが分かります。

三淵嘉子さんにはある信念がありました。

それは、

三淵嘉子

家庭裁判所は事件を扱うところではなく、人間を取り扱うところである

三淵嘉子

家庭裁判所の裁判官は、社会の中に入って行く必要がある

というものでした。

女性として先陣を切って法律の世界をかき分けてきた三淵嘉子さんならではの強い信念が感じられます。

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虎に翼モデル・三淵嘉子は高学歴!

様々な偉業を成し遂げてきた三淵嘉子さんの学歴をまとめてみました。

  • 1932年3月(17歳):東京女子高等師範学校附属高等女学校を卒業
  • 1932年4月(17歳):明治大学専門部女子部法科に入学
  • 1935年3月(20歳):明治大学専門部女子部法科卒業後、明治大学法学部に編入
  • 1938年3月(23歳):明治大学法学部卒業

それまで女性が弁護士になる道はかなり狭かったそうで、女子専門学校で文部省から指定を受けた学校はほとんどなく、女性を受け入れる大学も少なかったそうです。

なかでも明治大学の法学部に編入できる可能性があったのは明治大学専門部女子部法科のみでした。

当時の学びについて三淵嘉子さんは、

三淵嘉子

女子学生は男子学生の勉学の場をお借りしているという感じだった。しかし、成績に関しては女子学生には男子学生を超える部分もあり、女子学生は男子学生にとっていい刺激となっていたのではないだろうか。

と語ったといいます。

男女差がある中で肩身の狭い思いをしながら学び続けることは決して楽なことではなかったと思いますが、それでも「女子学生は男子学生にとっていい刺激」と言えるほど強い意志をもって学んでいた様子が伝わってきますよね。

当時の女性が弁護士になるための狭く険しい道を成し遂げた結果、高学歴になったといえるでしょう。

では、三淵嘉子さんが卒業した学校はどんなところなのでしょうか?

東京女子高等師範学校附属高等女学校:偏差値78

東京女子高等師範学校附属高等女学校は現在のお茶の水女子大学付属高等学校です。

日本初の官立女子高等教育機関である東京女子高等師範学校が現在のお茶の水女子大ですので、大学附属の高いレベルの高校に通っていたことが分かります。

偏差値も78とかなり高いです。

明治大学:偏差値60~62

三淵嘉子は、東京女子高等師範学校附属高等女学校を卒業した後に明治大学専門部女子部法科に進みました。

女性の社会的地位向上や男女平等が叫ばれる中、明治大学に誕生したのが女子部です。

明治大学女子部には法科と商科がありましたが、その後は女子専門学校となり、戦後には短期大学に編入されました。

偏差値は現在の法学部で60~62で、全国的にも高い方に位置しています。

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虎に翼モデル・三淵嘉子の年収は1200万円超えだった?

裁判官を退官した後も弁護士として開業していたという三淵嘉子さんの当時の年収は、1200万円を越えていたのではないかということが分かりました。

弁護士の年収が年々減少しているというデータがあります。

弁護士は1271万円から729万円と4割以上の減だ。背景には、弁護士が増えすぎていることがあるだろう。

出典:Newsweek

2010年には1271万円だった弁護士の年収は、2019年には729万円に激減しているというのです。

年々減少傾向にあるということは、2010年以前は1271万円よりも高かったのではないかと想定されます。

つまり、三淵嘉子さんが弁護士だった当時は年収が1271万円よりも高かったのではないでしょうか。

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まとめ

女性初の裁判所判事、裁判所所長となった三淵嘉子さんのざっくりとした経歴は以下の通りです。

  • 1914年11月13日(0歳):シンガポールに生まれる
  • 1932年3月(17歳):東京女子高等師範学校附属高等女学校を卒業
  • 1938年3月(23歳):明治大学法学部を卒業
  • 同年11月1日:高等文官試験司法科に合格
  • 1940年6月(25歳):弁護士登録(第二東京弁護士会所属)
  • 1947年3月(32歳):裁判官採用願を司法省に提出するも裁判官としての採用はなし
  • 1949年6月28日(34歳):東京地方裁判所で民事裁判を扱うように
  • 1952年12月(38歳):名古屋地方裁判所にて初の女性判事となる
  • 1965年4月~1972年(50~57歳):明治大学短期大学兼任講師を務める
  • 1972年6月(57歳):女性として初めて新潟家庭裁判所所長に就任
  • 1973年11月~1978年1月(58~63歳):浦和家庭裁判所所長に就任
  • 1978年1月~(63歳):横浜家庭裁判所所長に就任
  • 1979年11月13日(65歳):定年退官
  • 1984年5月28日(69歳):死去

また、三淵嘉子の学歴をまとめたものが以下です。

  • 1932年3月(17歳):東京女子高等師範学校附属高等女学校を卒業
  • 1932年4月(17歳):明治大学専門部女子部法科に入学
  • 1935年3月(20歳):明治大学専門部女子部法科卒業後、明治大学法学部に編入
  • 1938年3月(23歳):明治大学法学部卒業

女性初の弁護士となった三淵嘉子さんの年収は1200万円を越えていたのではないかということも分かりました。

「虎に翼」では三淵嘉子さんの生涯がどのように描かれるのか楽しみですね。

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